昭和22年8月1日、練馬地区の独立を求める人々の努力が実をむすび、23番目の特別区として練馬区が誕生しました。おおよそ2万年前から、この地域には人が居住していたようです。ここでは練馬区の歴史をひもといてみましょう。
区名の由来
・関東ローム層の赤土を練った所を「ねり場」といった説。
・石神井川流域の低地の奥まった所に「沼」=「根沼」が多かったという説。
・奈良時代、武蔵国に「のりぬま」という宿駅があったという説。
・中世、豊島氏の家臣に馬術の名人がおり、馬を馴らすことを「ねる」といった説。
などいろいろな説があり、これという定説はありません。
原始・古代
人が住み始めた時代は、約1万5千年前の先土器時代と言われており、以後、弥生時代、古墳時代から歴史時代にかけての遺跡も区内各所で発見されています。氷川台一丁目の城北中央公園内の栗原遺跡には、7〜8世紀ごろの竪穴住居が復元されており、小さな竪穴住居の集落が点在していた当時の練馬の様子を語っています。大化の改新(645年)後、律令制に伴い、練馬は、武蔵国豊島郡に属しました。豊島郡は今の千代田・中央・台東・文京・荒川・北・練馬・新宿・豊島・練馬の10区にまたがる広い地域を占めていました。当時、練馬地域は石神井川や白子川流域など、限られた地域に集落が営まれ、大半は草原と雑木林の続く広大な原野だったといわれています。
中世へ
平安時代末期、全国各地で荘園が生まれ、それを基盤とする武士団が誕生しました。武蔵国豊島郡においては、豊島氏が勢力を広げ、豊島氏は最初の拠点として、荒川沿岸で石神井川河口に近い現在の北区上中里に平塚城を築きました。さらに豊島氏の領主的支配の手が、石神井川流域を西にさかのぼり、練馬の地域に進出したのは鎌倉時代と伝えられています。鎌倉・室町期には、こうした城をめぐる攻防が頻繁に起きていた。石神井城主豊島泰経と太田道灌の戦いもその一つである。この戦いで、約200年にわたって練馬の地を支配してきた豊島氏は滅び、太田氏の支配を受けることとなった。その後、後北条氏の支配へと移り変わった。
近世では
時代は徳川氏の時代へと移り、ダイコン、ゴボウ、イモなどを江戸市中に供給する一大近郊農村として練馬は発展しました。千川上水は、徳川幕府によって元禄9年(1696年)に開発されたもので、当時の練馬の農業にとって貴重な水資源となりました。この当時の練馬の農業は、水に恵まれない土地柄のために農地のほとんどが畑でした。江戸時代中期には、江戸の発展に伴い練馬は、大根、ゴボウ、ナス、イモなどを江戸市中に供給する一大近郊農村にまで発展し、特に大根は、関東ロームといわれるきめ細かい土壌に適し、保存食としてのたくあん漬が根付いたのもこのころであったといわれます。
明治・昭和
明治に入り、明治11年(1878年)の「郡区町村編成法」により、練馬の大部分は北豊島郡に編入されてしまいました。大正12年(1923年)の関東大震災後、都心部から練馬の人口流入が始まり、昭和7年(1932年)に東京市は35区制となり、練馬は板橋区に編入されてしまいました。
そして戦後・・・
第二次大戦後の昭和21年(1946年)、練馬地域の町会長、区議会議員、各種団体長が協議会を開催、練馬区設置を決議しました。1947年3月、東京都は35区制を廃止し、22区制で再スタートしましたが、練馬の人々の運動により、8月に「練馬区」として独立することになりました。(1999年版練馬区史によると、東京都は、22区制制定の過程で、23区制をとることを予定していたとあります。)練馬区は「23区でもっとも新しい区」だったんです。
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練馬区立石神井図書館郷土資料室 |
| 住所: |
〒177-0045
東京都練馬区石神井台1丁目16-31(石神井図書館地階) [地図を見る] |
| 電話番号: |
03-3996-0563 |
| 開館時間: |
9:00〜17:00 |
| 休館日: |
毎週月曜日
(月曜日が祝日の場合は翌火曜日)
毎月第4金曜日
年末年始(12月28日〜1月4日)
特別館内整理日
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| 入館料: |
無料 |
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